Japan-lifeissues.net | 安楽死:よくなされる質問への答
質問のLIST
- 安楽死とは何ですか。
- 安楽死と自殺幇助の違いは何ですか。
- 安楽死は尊厳ある死を保証するものではないのですか。
- 安楽死が合法化されれば、現在行なわれているように、患者がビニール袋で窒息死したり、一酸化炭素でガス死したりせずに、家族や医者に囲まれて安らかに死ぬことができるようになるでしょうか。
- 現代の科学技術は昔であれば死んでいたであろう人々を生きさせておくことができないのでしょうか。
- 人間は生き続けるよう強制されるべきなのでしょうか。
- 政府に人々を苦しませる権利があるのでしょうか。
- 人々には自殺をする権利があるべきではないでしょうか。
- 「殺す」という言葉は、安楽死に対して強すぎる言葉ではありませんか。
- 安楽死は末期病の人々だけに適用されるのでしょうか。
- 安楽死は患者からの要求のみによるものではないのでしょうか。
- 安楽死は健康管理費の抑制の手段となる可能性があるでしょうか。
- 誰も安楽死を強制されることがないのは確かなのでしょうか。
- もし死が避けられないものであるならば、死にかけていて、自殺を望んでいる人には自殺する権利があって当然なのではないのでしょうか。
- 安楽死は、耐えがたい苦痛を和らげる唯一の方法である時もあるのではないのでしょうか。
- 安楽死に対して反対することは、宗教的な信仰を他人に押しつけようとしていることにすぎないのではないでしょうか。
- 安楽死は主に誰が支持しているのですか。
- 自殺は法律に違反するものでないならば、なぜ自殺幇助をすることが法律に反しているのでしょうか。
- どの点で安楽死が合法的なのですか。
1.安楽死とは何ですか。
答:以前は「mercy killing」(慈悲殺)と呼ばれていたものですが、安楽死とは、人を自然に死なせるというよりむしろ、意図的に人を死に至らしめることを意味します。遠慮なく言えば、安楽死は慈悲という言葉を使って人を殺すことを意味します。
2.安楽死と自殺幇助の違いは何ですか。
答:安楽死の場合は、ある人が他の人を直接死に至らしめるために何らかの行為をします。例えば、医師が患者に毒物を注射する行為がそれにあたります。
自殺幇助の場合、当人が自殺をする手助けとなる手段を当人以外の人が提供したり、何らかの方法で自殺の手助けとなる行為を意識的、意図的にします。例えば、医師が毒薬の処方箋を書いたり、他の人がフェイスマスクと一酸化炭素のボンベをチューブで繋ぎ、ガス自殺できるように当人にレバーの押し方を教えたりするのがこれにあたります。
安楽死には自殺幇助と安楽死の二つの意味がありますが、今はどちらも安楽死という言葉が使われています。
3.安楽死は尊厳ある死を保証するものではないのですか。
答:「尊厳死」は、安楽死の支持者が用いるキャッチフレーズになってしまっていますが、彼らが主張する方法は、何の尊厳もないのです。例えば、ある安楽死支持組織は、ビニール袋で窒息死する方法を説明したパンフレットを配布しています。ジャック・カボーキアン氏の「患者」(彼はそのように呼んでいるのですが)の大部分は一酸化炭素で窒息死させられて、その遺体が駐車場の車の中に放置されていたケースもありました。
4.安楽死が合法化されれば、現在行なわれているように、患者がビニール袋で窒息死したり、一酸化炭素でガス死したりせずに、家族や医者に囲まれて安らかに死ぬことができるようになるでしょうか。
答:いいえ。安楽死支持運動では、しばしばそのように言っていますが、それは真実ではありません。以下に述べる法律で安楽死を容認した二ヶ所では、弱い人々を殺すためのビニール袋や一酸化炭素の使用を合法化しただけであることが明らかになっています。
例えば、オレゴン州の16号法案の可決直後、人々は錠剤で安らかに死ぬことができるだろうと言っていた人々が即座に踵を返して、その法案によってジャック・カボーキアン氏が行なっているような種類の活動が許されるだろうと認めたのです。
同じような状況がオーストラリアのノーザン・テリトリー(オーストラリア中央北部の準州)で起こっています。そこでは安楽死支持者が、患者が愛する者に囲まれて、穏やかに安らかに死んでいくというイメージを作り出したのです。
どのような領域は、補助を行います
法案が可決されて、それに対するガイドラインが作られた時、一酸化炭素ガスが許容されるだろうということが確認されました。もし安楽死のために薬物が用いられる場合は、死は見ていていやなものなので、家族は患者が殺される時、病室にいないほうがよいと勧告がなされました。(毒薬の注射は、ひどいけいれんやひきつけを起こすことがよくあることですから。)
患者の生命を終わらせるための、非常に冷酷な方法がオーストラリアの著名な安楽死支持者によって提案されました。その人は、医師が実際の死の現場にいなくていいように、安楽死用のコンピュータのプログラムを開発したと発表したのです。
5.現代の科学技術は昔であれば死んでいたであろう人々を生きさせておくことができないのでしょうか。
答:現代の医学が人間の寿命を伸ばしたことは明らかなことです。今世紀初期においては、肺炎や虫垂炎や糖尿病や高血圧やさらには虫歯でさえ、しばしば耐えがたい苦痛を伴う死を意味することがありました。女性の寿命が男性より短かったのは、出産中に死ぬ人が多かったからです。抗生物質や予防注射や外科手術や今日の日常的な治療や薬物治療の多くは当時知られていませんでした。
安楽死や自殺幇助の死を望む人は、器械につながれて生き続けることを強制されたくない人であろうと考える人が多くいます。しかし、患者もしくはその代理人が、そのような延命治療を控える、または中止することを命じることが出来ると法律によってすでに認められているのです。
6.人間は生き続けるよう強制されるべきなのでしょうか。
答:いいえ。法律も医学倫理も、人を生かせておくために「あらゆることが行なわれるべきだ」とは要求していません。患者の意志に反して、可能な限りの手段を用いて死を先へ延ばすことを主張することは、法律と医業に反することです。それはまた残酷で非人道的なことになるでしょう。
治療をし続けることが、哀れみ深いことでも賢明でも医学的に健全なことでもない時代が来たのです。そこが在宅ホスピスを含めたホスピスが非常に役立つところなのです。
患者の残された時間を快適なものにすることに努力が集中されるべき時代なのです。だから、全ての延命治療は、患者自身と患者が愛する者への感情的精神的支援の提供ばかりでなく、苦痛や他の症状を緩和の方向にも向けられなければならないのです。
7.政府に人々を苦しませる権利があるのでしょうか。
答:絶対ありません。同様に、政府は、ある集団の人々(たとえば医師)に他の集団の人々(たとえば患者)を殺す権利を与える権限を持つべきではありません。
安楽死支持者は、安楽死禁止の法律は政府によって強制された苦しみであるとしばしば主張しています。しかし、この主張は、汚染食品の販売禁止の法律は、政府によって強制された餓死であると言うことと同様のことなのです。
安楽死禁止の法律は、安楽死の乱用を防ぎ、無節操な医師や他の者達から、患者を守るために存在しているのです。
8.人々には自殺をする権利があるべきではないでしょうか。
答:自殺および自殺未遂は、犯罪とはみなされていませんから、人はいつでも自殺出来ます。毎年、アメリカ合衆国だけでも、殺人より自殺のほうが多いのです。
自殺は悲劇的な個人的行為です。安楽死は個人的な行為ではありません。それは、ある人が他の人の死を容易にすることを許容することなのです。そのことを人々が憂慮しているのです。なぜなら、それは、ひどく利用され、悪用され、最も弱い人々に対する看護を徐々に減らす結果になる可能性があるからです。
安楽死は、死ぬ人々に権利を与える問題ではなく、医師や親戚やその他の人々が直接意図的に他の人の生命を終わらせることができるように、法律や公秩序を変えようとしている問題なのです。この変更は殺される人々に権利を与えることにはならず、殺す人々に権利を与えることになるでしょう。言いかえれば、安楽死は死ぬ権利についての問題でなく、殺す権利についての問題なのです。
9.「殺す」という言葉は、安楽死に対して強すぎる言葉ではありませんか。
答:いいえ。「殺す」という言葉は「死をもたらす」ということ意味します。
1989年、ニューイングランド医学ジャーナルに、患者が自殺できるように、医師が自殺についての情報を提供したり、毒薬の処方箋を書いたりすることは道徳的に容認できるという結論に達したという記事を発表した医師のグループがありました。その記事の筆者の一人である、ロナルド・クランフォード博士は、これは「患者を殺すことと同様のことだ」と公に認めました。
法律が変わって、安楽死が「医学的介入」だと認められるようになっても、現実は変わらないでしょう。つまり患者が殺されることに変わりはないでしょう。
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安楽死支持者は、しばしば「救済」とか「死の援助」という婉曲語を用います。もし婉曲護を使わないで、正確に表現する言葉を使用すれば、その公秩序が間違っていることが明らかになるからでしょう。
10.安楽死は末期病の人々だけに適用されるのでしょうか。
答:絶対にそうではありません。ここに二つの問題があります。「末期の」という言葉の定義と、安楽死を「末期病患者」以外の人に適用させるためにすでに起こってしまった変化の問題です。
「末期の」という言葉には多くの定義があります。例えば、ジャック・カボーキアン氏は、1992年のナショナル・プレスクラブでの演説の中で、「末期病」は「たとえ一日であっても、生命を縮めるあらゆる病気」であると言いました。へムロック協会の共同設立者は、「末期的老齢」のことであるとしばしば言っています。「末期的な」状態を、死が「比較的短時間」のうちに起こる状態であると定義している法律もあれば、「末期的な」とは、死が六ヶ月以内に予想されることを意味すると述べている法律もあります。
例えば、あと余命六ヶ月とか言われる場合でも、医学の専門家は、ある特定の患者の寿命を予測することはほとんど不可能だと認めています。さらに、末期病だと診断されても何年も死なない人もいます。
しかしながら、安楽死支持者は末期病という言葉の使用を避け、「希望が持てない病気」とか「絶望的な病気」とか「治療不可能な病気」とか「希望の無い状態」とか「意味の無い人生」とかいう言葉に置き換えようとしています。
そのジャーナルの中の「自殺と生命を脅かす行為」という記事には、絶望的な状態にある人々に対する自殺幇助のガイドラインが述べられていました。「絶望的な状況」とは、末期病、ひどい肉体的精神的苦痛、肉体的精神的衰弱または悪化、もはや当人には受け入れがたい生活の質が含まれると定義されていました。まさしくそれは、自殺衝動を持っている人には誰にでもあてはまるものです。
有名なアメリカ精神医学協会への1996年5月の演説の中で、(多発性硬化症の妻の死を1995年に幇助した)ジョージ・デルーリィは「絶望的な病気の人、又は60才以上の人は死への許可証の申請をすることができ」、そしてそのような許可証は医師の診察を受けなくても認められるべきだという提言をしました。
11.安楽死は患者からの要求のみによるものではないのでしょうか。
答:いいえ。安楽死支持者は、彼らの主な主張の一つとして、安楽死は「医療」と考えられるべきだと主張しています。もし安楽死が良いものであるという概念が受け入れられれば、当人が、その要求をするには若すぎるとか、精神的能力があまりにも乏しいとかいう理由で、この人間に対する「良さ」を否定することは、不適切であるばかりでなく差別的なことにもなるでしょう。
事実、今問題になっている決定において、第九回上告巡回裁判所は、自殺幇助は憲法に保証された権利であると宣言し、代理人の決定は合法的に患者自身の決定であるという意見を明らかにしました。それは子どもや自分で決定のできない人が安楽死させられる可能性は十分にあるということを意味しています。
しかし、代理人が他のものに対して死を選択することが許されないと仮定しても、死を要求する自由がどのくらいあるかという問題は、依然として残ることになるでしょう。もし安楽死が方針として、または実際問題として認められれば、巧妙な、さらには意図しない強制が不可避のことになるでしょう。
12.安楽死は健康管理費の抑制の手段となる可能性があるでしょうか。
答:恐らく、近年最も重要な意味を持ってきている事態の一つは、健康管理者に費用を抑えるようにと圧力がますますかけられていることでしょう。そのような風潮のなかで、安楽死は確かに費用抑制の一つの手段となりうるでしょう。
合衆国では、何千人もの人々が全く医療保険に入っていません。調査によれば、貧しい人々や少数民族集団の人々が一般的に、苦痛緩和医療を十分に受けられず、末期医療施設は、医師が患者に治療をしなければ、医師に現金で特別の手当てを支給していることが明らかになりました。
末期医療がますます重視されるにつれて、患者を治療することで、財政危機に陥る医師が多くなります。
合法的な安楽死は、重病、又は障害を持った人が、長期間にわたる治療を受けるよりも、死ぬことを「選択」してくれれば、医師が財政的に豊かになりうるという深刻な状況が起きる可能性を示しています。
政府にとっては、費用の節約も問題となるかもしれません。もし政府が治療や介護への支出を削減し、それらを死の「治療」に置き換えるならば、このような状況が起こりうるでしょう。
例えば、自殺幇助を許可するオレゴン州の16号法案の可決直後、オレゴン州の低所得者医療補助部局長であるジーン・ソーン氏は、医師による自殺幇助は、345000人の貧しいオレゴン州の人々に医療補助を提供しているオレゴン・へルス・プランの下では、「安楽医療」として医療費の支給がなされるだろうという発表をしました。
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16号法案の可決後18ヶ月以内に、オレゴン州は、貧しい州の住民に医療補助費の削減をする計画を発表しました。
カナダでは、入院期間が短縮され続けているけれども、貧しい人々や老人のホーム・ケア資金は手に入れられるようにはなっていないのです。
正看護婦は、費用のかからない準看護婦に置き換えられています。患者は、必要とされるいろいろな手術を長い間待たざるを得なくなっています。
13.誰も安楽死を強制されることがないのは確かなのでしょうか。
答:身体的な強制力は、まずありえないでしょう。しかし、感情的、精神的なプレッシャーは、うつ病の人や介護を受けている人には堪え難いものになりうるでしょう。もし安楽死を選択することが、治療を受けるのと同じくらいの良い決断だと考えられるならば、多くの人々が、死を選ばないことに罪悪感を感じるでしょう。
「重荷である」という心配に加えて、医療費のことを考えれば、人が安楽死や自殺幇助を「選ぶ」ことにつながる強力な力となりうるかも知れません。
ほんのちょっとした仕草でも、早く死になさいという雰囲気をかもし出すかもしれません。そのようなことは、1991年のヘムロック協会の全国大会で売られたグリーティングカードで、立証されています。
会議のプログラムによれば、そのカードは末期病の人々に配られる予定でした。特にその中の一枚のカードは、生命を脅かす病気と直面している人に残されている最後の希望のひとかけらさえも奪い去ろうとする運動の核心部分をあらわした何よりも良い例でした。それには、「私は、あなたがまもなく私達のところから去って行こうとしていることを知りました。」と書かれてありました。
14.もし死が避けられないものであるならば、死にかけていて、自殺を望んでいる人には自殺する権利があって当然なのではないのでしょうか。
答:末則病だと診断された人の自殺が、末期病とは考えられない人の自殺と全く違うところがないということを理解することが大切なのです。うつ状態、家族の対立、あきらめの気持ち、絶望などは身体的状態とは無関係に自殺の原因となるのです。
研究によれば、もし死にかけている人々の苦痛やうつ状態が十分に治療されれば、そうでない自殺志願の人の場合と同じように、自殺願望は消えてしまうのです。 一般の人々の自殺と同じように、末期病の人々の自殺は、犠牲者の生命を縮め後に残された人を打ちのめす悲劇的な出来事なのです。
15.安楽死は、耐えがたい苦痛を和らげる唯一の方法である時もあるのではないのでしょうか。
答:全くその逆です。安楽死支持者は、人間が苦しみや死に対して生来抱いている恐怖心を利用しているのです。そしてもはや治療不可能のように思われる場合、安楽死か耐えがたい苦痛か、の二つの選択肢しかないというようなことをしばしば言います。
例えば、死ぬ権利を主張する団体である「死の選択」の幹部は、安楽死を許可することを拒否すれば、「実際、その患者をぞっとするような死にゆだねることになるだろう」と言いました。
そのような無責任な発言は、ほとんど全ての苦痛を取りのぞくことができること、そして取りのぞくことができないような希な場合でも、適切な治療が行なわれれば、かなり苦痛を和らげることができるということに気づいていない証拠なのです。
非常に多くの人が十分な痛みの緩和医療を受けていないことは、国の内外を問わずそれは恥べきことです。しかし、殺人はその恥ずべきことへの答にはなりません。このような重要な問題に関する健康管理専門家の教育水準を上げること、そして患者に消費者としての権利について情報を提供することがその解決方法なのです。
生命を脅かす病気にかかっている人であれ、慢性の病気にかかっている人であれ、全ての人が緩和ケアを受ける権利があるのです。現代の、苦痛緩和分野における進歩によって、耐えがたい苦痛に耐えなければならない人はいないはずです。しかしながら、たいていの医者は、苦痛緩和の研修を受けていないのでどうしたらいいかがわからないのです。
もし医者にかかっている患者が耐えがたい苦痛を感じているならば、別の医者を探してみることが絶対必要です。しかし、その医者は患者の苦痛を緩和する人であるべきで、患者を殺す人であってはならないのです。
身体的な苦痛を緩和する手助けとなるばかりでなく、しばしば身体的な苦痛に伴う感情的な苦しみやうつ状態に対処できるために必要な援助の手を差し伸べることにも熟練している、苦痛緩和の資格を持った専門家がいるのです。
16.安楽死に対して反対することは、宗教的な信仰を他人に押しつけようとしていることにすぎないのではないでしょうか。
答:いいえ。安楽死を推進している人々は長い間、安楽死に反対する人は誰でも、自分の宗教を社会に押しつけようとしていると思わせようとしてきました。しかし、実際はそうではないのです。
安楽死の議論に賛成の人も反対の人も特定の宗派に属していることを明言しています。全くどの宗派にも属していない人もいます。しかし、このことが宗教論争でないことを理解することはもっと重要なことです。それは公秩序と法律に関する論争なのです。
ある人々の宗教的な信仰が長期間にわたって維持されてきた公秩序と対応するものであったという事実は、ある問題に対してある立場を取る権利を奪うものではありません。
例えば、店員が会社の利益を盗み取ることを禁止している法律があります。これらの法律は、宗教的な信仰と一致しているけれども、そのような法律を排除すべきだと提案することはばかげたことになるでしょう。そして、ものを盗むことに対して、宗教的に反対の立場を取っている人が、盗みを禁止する法律を支持することはできないということもまた同様にばかげたことです。
同様に、安楽死に反対している人々の宗教的な信仰が、長年続いている方針に対応しているという事実も、その問題に関して立場を表明する権利を奪うものでもありません。
現代史上ずっと、法律は安楽死を禁止してきました。このような法律の必要性は、公秩序に基づいて議論されてきたし、またこれからもそうあり続けるべきなのです。そしてどの宗教を信仰していても、まったく信仰していなくても、誰でもその議論に加わる権利が当然あるのです。
安楽死と自殺幇助を合法化する試みが失敗したワシントン州では、投票の数日後に行なわれた世論調査では宗教的な理由でその法案に反対した人は10%未満だったことがわかりました。
翌年、カリフォルニア州の有権者は、同じような法案を否決しました。その選挙運動期間中、安楽死支持者は、法案への反対の全てが宗教的なものであると主張しましたが、安楽死と自殺幇助を合法化したであろう法案に反対したグループには、カリフォルニア老齢委員会、カリフォルニア看護婦協会、カリフォルニア精神科医協会やカリフォルニア州ホスピス協会が含まれていました。その上、ロサンゼルス・タイムズやサンフランシスコ・クロニクルやサンディエゴ・ユニオン・トリビューンを含むその州の全ての大手の新聞は、社説で、その法案に対して強い反対の立場を取りました。
17.安楽死は主に誰が支持しているのですか。
答:最も明確に声に出して安楽死を支持しているのは、ジャック・カボーキアン氏や「死ぬ権利」を主張する団体なのですが、医療費を削減することに関心のある団体や個人が安楽死支持にますます関与してきています。例えば、医療で利潤を上げる企業と関連のある財団が、明らかに安楽死賛成方向に偏ったプログラムに資金援助をしています。
18.自殺は法律に違反するものでないならば、なぜ自殺幇助をすることが法律に反しているのでしょうか。
答:自殺も自殺未遂も合衆国のどの州においても、他の多くの国においても犯罪だとは見なされていませんが、それは自殺する「権利」のために、そう見なされていないのではありません。自殺未遂に対する処罰が廃止された時、法学者は、このことが自殺を許可するために行なわれたのではないことを明確に示しました。その反対に、それは自殺を防ぐことを意図されたものでした。罰則を取りのぞくことによって、もし自殺を図ったことが発見されても、起訴される心配をしないで自分が直面している問題に対処するために人の助けを求めることができるでしょう。
事業に失敗したからといって、自殺しようとしている人が殺される「権利」を、現在の公秩序が認めていないのと全く同じように、身体的な状態に絶望したからといって人々が殺されることも認められるべきではないのです。もし安楽死が合法化されれば、老齢であるとか、病気であるとか、身体に障害があるとか、介護をされているとかの「弱さ」のために、死刑に相当するような状態を強制されたり、そうなるように圧力をかけられたり、食い物にされたりしかねない弱い人々よりも、殺人者の方が自分の生命を守ってもらうための権利を多く持つようになるでしょう。
19.どの点で安楽死が合法的なのですか。
答:安楽死はオランダで広く行なわれていますが、それは厳密には非合法的なものなのです。1994年10月に、オレゴン州の有権者は、安楽死を認める法案に賛同しましたが、その法律は今法廷で争われており、まだ施行されていません。オーストラリアのノーザン・テリトリーでは安楽死法案が可決され1996年7月1日に施行されましたが、法廷での意義申し立てのために、その施行が妨げられており、廃止法案がこの秋に論議されることになっています。
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